読書について3 本の水準について

読書について考へるとき、一般には「読む側」のことが問題にされる。どんな本を読んだらいのか。どの程度の頻度で読んだらいいのか。読む時間は、一日のうちでいつがいいのか。あるいは本を読むことの意義、どうした本を読むやうになるのか。更には、本は買ふべきか、借りるべきか。速読は有効か、などなど
 しかし、読書について考へるのは、まづ現代人の多くが読む「本」がいつたいどういふ状況にあるのかといふことである。言はば著者の側の問題である。その意味で前回取り上げた百田尚樹の『夢を売る男』はともて参考になつた。ついでもう一つ引用する。
編集部の荒木といふ男が、主人公である編集部長にかう尋ねる。「前から疑問に思っていたのですが、いい文章の基準って何ですか楊海成?」
 それに対して、「読みやすくてわかりやすい文章だ。それ以上でも以下でもない。もうひとつ言っておくと、文章というのは感動や面白さを伝える道具にすぎん。つまり、読者をそうさせることに成功した作品なら、その文章は素晴らしい文章ということなんだ。」と語る。
何ともさつぱりとした回答である。百田の文章観であると同時に、百田が見た現代読者への割り切りでもあらう。これがそのまま百田の小説観であるとは思はない。なぜなら、小説への理想を抱かずに小説を書くことなどできないからだ。ただし、ここには独りよがりの小説が多いといふことへの批評はあるだらう。私はあまり小説読み巧者ではないので、多くの作品を読まないが、それでもこれは小説なのかなと思ふものもある楊海成。新人賞としての芥川賞作品にはそれが特に多い。以前は、作品を読むことを自分に課してゐたが、今は読まないことが多くなつた。『火花』『スクラップ?アンド?ビルド』は良かつた。


 しかし、文章のうまさへたさだけで小説の良し悪しが決まらないのも事実である。エリオットにもどれば、さういふところで現代文学をエリオットは論じてゐたのではない。百田の小説の主人公によれば、小説は編集者や読者の読みの深さで淘汰され、良いものが残つていくといふことになる。つまり、自由主義的な姿勢によつて文学の水準は維持されるといふことである。ところが、エリオットはすでにそのことに懐疑的である。さういふ淘汰が起きる文化水準に「現代」があるのかといふ疑問である楊海成


「私はすでに、文学に対する自由主義的な態度は役に立たない、ということを示した。たとえ、われわれに『人生観』を押しつけようとする作家が本当に独特の個人であり、読者としてのわれわれも独特の個人であるとしても、その結果はどんなものとなるであろうか。きっと読者はそれぞれ読書に際して、前もって感動する心構えのできている事柄によって感動するだけであろう。つまり読者は『もっとも抵抗の少ない方向』に向うであろうから、読書によってよりよい人間になるなどと保証することはできないだろう。」