才能ある美男美女と、自分

今日は、遠路はるばる、一度も行ったことのない地へ行った。
バス〜私鉄〜地下鉄〜私鉄を乗り継ぎ、家を出てから2時間半後に到着した。
スマホのアプリを使うと、見知らぬ駅から徒歩で、まったく行ったことも聞いたこともない場所に、スイスイほいほい行ける。
海外でも使えるのなら、嬉しいけれど。(WiFiのないところでは、海外用の自前のものを用意しないといけないだろう)


目的は社交ダンスパーティ。
会場は、そうとうマニアックだった。
かなりわかりにくい、地元の人にしかわからない場所にあり、参加者はとても少なく、思わずUターンしようかと思ったが、主催者に引き止められた。
そりゃあそうだ。
わたしだって、片道2時間半もかけて行っているのだから、のこのこ帰ってくるわけにはいかない。


このパーティには、コンセプトがあった。
社交ダンスのペアを組む相手を求める人が集う、お見合いパーティー。


お見合いの人は入場料も違い、番号が書かれたバッジを付ける。
もともと、わたしは、冷やかし半分、本気半分であったが、大幅に遅刻したことや、劇団員の白熱した練習風景のような、研ぎ澄まされた凛とした、本気ムードの会場に、


腰が引けた。
なので、へらへらと一般客として参加した。


お見合い成立は、1組。
とびきりお上手な美しい女性と男性だった。
わたしは、こんなハイレベルな人々の中にいるのは、明らかに場違いであった。
片道2時間半の場違い。
まあ、行ってしまったものは仕方ない。


そこで、感想。
芸事や、ダンス、なにかに秀でている人は、美しい。
容姿端麗、俳優のように美形である。
成立したカップルも美男美女。
ダンスは勿論、飛び抜け上手だが、容姿、器量も、これまた群を抜いている。


わたしは、自分の容姿には自信がない。
客観的な事実を見ても、家系などDNAも、美形遺伝子はない。
トンビが鷹を産む確率はいたって低いので、美形が産まれることは、ほぼない。
スポーツ系に優れたDNAもない。
だから、素晴らしい目を惹く美形で、抜群にダンスが素晴らしい人々を見ても、それは自分と比較する存在ではなく、飲む水が違い、棲む世界が違う。


じつに、冷静に、その違いを感じた。


そもそも、わたしは、美形は苦手なので、あまり接点も接触も交わりも交流もない。
だから、羨ましいとか妬ましいとか、そういうのはなく、胸がザワザワしないで、クールに客観的事実を受け止めることができる。


よかったね。
なのか?

「ゆとりですがなにか」

29日の日曜日に最終回を迎えたドラマはもう一つありました。


クドカン脚本の「ゆとりですがなにか」dermes 價錢


このドラマは初回は、見ていて結構辛いものがありました。


「ゆとり世代」っていったい何なのかなって、私は思います。



ちょっとドラマとは関係のないお話をします。


かつて一人の少女が私に言いました。


「みんな、簡単に『ああ、ゆとりね。』って言うじゃない。でもあれ、言われている方は凄く嫌な気持ちになるの。だって、何か私たちしたの?」


それを聞いて、私はああ、本当にそうだなあと思いました。それから私は気を付けて、あまり言わない様にする事にしました。と、書いたら、言っていたと言うことがバレバレですね休閒椅


ええ、言っていましたよ。


だってまさに自分の子供がその世代。私が時々、「家族スナップ」の記事の中で、下の息子相手に、主に国語と社会の一般常識クイズをしてしまうのは、明らかに教科書レベルの知識量が足りないからです。それはうちの子供に限ってのことかもしれませんが、その話をすると、ほぼ同年代の子の母たちから同じことを聞かされるのです。


一般常識的な知識を削りに削った薄い教科書で鞄は軽くて良かったかもしれませんが、頭まで軽くなっちゃったらね、それは言いたくもなりますよ。


「このゆとりめ。」って。


でもこれはこの時代を過ごした子供たちに言っているのではなくて、その教育に向けて言っているんですよね。


もちろん今からドラマの感想を書こうとしているわけなので、これ以上にの「ゆとり教育」についてのあれやこれやは書きません。


初回、何が辛く感じたのかと言うと、今の20代の後半までの人が自分たちで「ゆとり世代」と言うのと同様に、その母たちが自分の子供たちを「ゆとり世代で」と言うのは良いのですよ。だけど、それを人に何やかやと言って欲しくないのです。


私だって言いたくなりますよ。


「ゆとりですがなにか。」って。


だけどこのドラマはそんなゆとり世代とは何かなどを描いたものではありませんでした。



いつだって「今の若い者は。」と言う言葉は使われてきたのですよ。


順番に。


「今どきの若い者は。」が「ゆとり」に変わっただけ。


20代ラスト周辺の若い人たちと、それを取り巻く姿だけは一見大人たちの青春群像劇だったのではないかと思いました。←言い方が「今どきの若い人」じゃない古い言い方^^;


さすがクドカン。


最後まで飽きさせず、大笑いしながらいろいろと考えさせられるドラマとなりました。


頗る面白かったです。


私が途中からみやびと十倉(「私、結婚できないんじゃなくて、しないんです」)のきらきら光る粉の魔法にかからなければ、このドラマが2番目に楽しみだったと書いたかもしれません。



ところで先日、とある中学1年生女子に、


「中学になると、今まで3.14で計算しなければならなかった円の面積が、π(パイ)が使えるからすごく楽になるわよ。」と教えたら、


「パイか~。パイと聞くと何を思いますか?」言われました。


その時私は瞬時に


「おっぱいいかがですか~!!」と言う柳楽優弥の張りのある声が頭の中で響き渡りました。


もちろんそんなことはおくびも出さず、


「円周率しか思い浮かびません。」と世にもつまらない答えをわざとらしく言うと


「私はレモンパイ????」にやり。


わざとらしい~。ひっかかるか、アホめ 



それはともかくとして、あのぼったくりバーに誘い込む「おっぱいいかがですか~。」って声、好きだったなあ。


内容的にはヤバイセリフかも知れないけれど、ちょっとスカッとした。


なんでかって言うと、それはそれなりに私的考えがあるのだけれど、更に長くなるので止めます。

ぶんぶんぶん蜂が飛ぶん

日々の気温の差が大きく、季節が戻ったり先に行き過ぎたりということを繰り返すと、毎度のことながら「今はいつ? これから冬なの? 春なの?」と混乱する。その一瞬の混乱を、ふわっと楽しんだりもする。地に足がつかないまま、意識の中でくるりと身体を巡らせ、景色の中に答えを探すような、そんな感じAmway安利



道端にはれんげ色のホトケノザが咲き、更に足元をよく見ると、小さな青いオオイヌノフグリもたくさん咲いている。ツクシも見つけた。気づけば下ばかり見て春を探している。桜を見上げて歩く日までもう少しだ。


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週末に『蜜蜂と遠雷』(恩田陸)を読み終えた。ピアノコンクールに出場するコンテスタントたちを描いた小説だ安利


「世界は音楽だ」「音楽は世界だ」「少年はミュージックだ」「この世界は音楽で溢れている」「さあ、私の、あなたの音楽を!」と、小説は謳い上げる。けれど、その小説は「言葉」で溢れている。



ピアノの音も楽曲の特徴も、演奏によって想起される光景も聴衆の反応も、ホール全体の空気感も、全て「言葉」で繰り返し表される。言葉、言葉、言葉、文、文、文! 



無限の広がりを持つ「音楽」に対して個人の使う「言葉」には限りがある(私の読解力にも限りがある)。それがなんだかもどかしくて、途中で何度も「音」を聴きたくなった。実際の演奏を聴きたくなった。本当はどんな「音楽」なんだろう、自分ならどう感じるんだろうと安利


きっと、私はそれを「言葉」にはできないのだけれど。